病院紹介

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パルモア病院と三宅廉医師

1949(昭和24)年頃より

パルモア学院院長室と教授研究室を開放して、医師の資格をもつ宣教師が、パルモア学院生徒を対象とする内科の診療を行っていた。この頃は、まだ戦後の住環 境問題、食糧・医療資源の不足が強く、人々の健康を大きく脅かしていた時代であった。事実、働きながら実用英語を学んでいる学院生の中にも健康を損なっ ている人たちが多かった。当時の学院長石井卓爾は、学校内での診療を続けるにつれ、近隣の人たちが受診できる診療所を作りたいという思いを強めていった。 そして、京都府立医科大学の教授をしていた義弟の三宅 廉を専任の医師として招聘した。

パルモア学院:1886年 W.B.ランバス宣教師によって夜間の英語学校として設立され、英語と聖書を教えていた。ランバス師は1889年全日制の学問教育の場として関西学院を創立した。また、神戸栄光教会の創立者でもある。

1951(昭和26)年10月1日 医療法人パルモア診療所設立認可をうける。

初代所長 : 三宅 廉(小児科、昭和23年度唐澤賞受賞、京都府立医科大学教授)

内科医師 : ゲルハルトL.シュエルゼンツ(スイス、医療宣教師)

診療所の初代所長として招かれた三宅廉は、患者に充分な医療を行うには入院施設が不可欠であると診療所を19床の有床診療所にした。三宅廉の心中には常に聖書の「善いサマリア人」のたとえ(ルカによる福音書10章25-37節※)を話されたイエスキリストの『あなたも行ってそのようにしなさい』というお言葉が響いていたのであろう。

1956(昭和31)年1月16日 パルモア病院開院

住所

神戸市中央区北長狭通4丁目9-15

理事長

樋口 伴冶(社会福祉法人団体役員)

病院長

三宅 廉(小児科医師)

副院長

椿 四方介(産婦人科医師)

病床数

21床

医療法人(財団)パルモア病院設立許可1955(昭和30)年10月12日

三宅廉は大学小児科医局の時代から新生児に魅せられていた。当時は、分娩前後の新生児の死亡率が未だ高く、新生児救命に医師としての使命を強く感じていた。しかし、大学では各科別教室の医局制度の壁に阻まれて産科との情報交換もままならない状況に、もどかしさを覚えていた。これらの背景から、三宅廉は新しい病院では小児科と産科が協力していく体制を創って行くことに意欲を傾注した。

最初は、お産に小児科医も立ち会うことから始まり、妊娠中の妊婦の状態、分娩前後の母体や胎児・新生児の状態についての情報交換のために小児科医と産科医の周産期カンファレンスの開催などを実施した。また小規模ながら新生児室、未熟児室を備え、数台の未熟児保育器を設置した(※1)。

さらに、新生児重症黄疸に対しては、戦後はじめて淀川キリスト教病院のブラウン院長を通じて アメリカから日本に紹介されたダイアモンド法による交換輸血を淀川キリスト教病院に次いで採りいれ、重症黄疸による脳障害の発生を防いだ(※2)。

三宅廉が新たに創っていた体制は、産婦人科は妊婦を、小児科は乳児以降を診るという棲み分けをなくした、まさに、周産期医療の先駆けと言える新体制だった(※3)。

  • (※1)神戸大学附属病院、県立こども病院に早産児・未熟児を受け入れる施設ができるまでの数年間、他院からの搬送も受け入れた。
  • (※2)これはその後、光線療法が有効とされるようになってから、手術例は減少し、当院では(現在では)行なわれる機会は皆無となっている。
  • (※3)NHKプロジェクトXに『第49回 耳を澄ませ 赤ちゃんの声 ~伝説のパルモア病院誕生~』として、またアンコール放送に『救え赤ちゃん 奇跡の指先~パルモア病院~』として放映された。

1967(昭和42)年

初代建物の南側、パルモア学院教師住宅の跡地に66床の新病院を建設した。小児科18床、産婦人科35床、保育器を備える未熟児室13床合計66床への増改築を行う。新たな病院には、三宅廉の志の下、若い小児科医も加わってきた。さらに、新病院では蘇生器、検査機器の設備も整え、新生児集中治療室 (NICU)の充実を図っただけでなく、他院からの新生児の搬送も受入れ、新生児救命に力を注いだ。

1969(昭和44)年 第1回同籃記念会開催

同籃記念会とは、同じ揺り藍に揺られ、同じ体重籠で目方を計った子供たちを15年後に集める会で三宅廉が命名した。15歳からはもう子供ではなく、小児科の手を離れて自立する時であり、パルモア病院の成人式でもあったのだ。三宅廉は、同籃記念会の朝は何時もより深く感謝の祈りを捧げたといわれている。 『この日の為に生きてきた。この喜びがあるからこそ頑張れた。こんな至福を味わえるのは世界中で私1人なんだ。』と。しかし、毎年必ず1回開催されていた この会も、1991年(平成3年)を以って惜しまれつつも終了となった。長いようで短かった23年間の同籃記念会であった。

1989(平成元)年

三宅廉は名誉院長となる。名誉院長になってからも「"望まれない子供"なんかあって良い筈が無い。みんな大事な命だ。赤ん坊を見るたびに勇気が湧いてく る。高齢だが、体が動く限り幼子のそばに居たい。」と時間の許す限り、体力の続く限り診察室へと足を運んでいた。その三宅廉も名誉院長になってから5年後の満89歳で、惜しまれつつその人生を閉じた。三宅廉は、小児科医でありながら1万数千人の出産に立会い、健やかなスタートに力を注ぎ、生命の素晴らしさに生きた89年だった。